猫の額

初心者の猫と庭いじり。日々のこと。

はみだしっこが大人になる時2

「はみだしっこ」については、語るとちょっとやそっとでは済まない。小学生の時から知っているが、本当に読んだのは高校生の時で、その年齢でも非常に難解だった。なんでこんなに感じやすくて、物事を斜めからしか見ないのだろうと思った(特にグレアム!)。でもとにかくはまった。理解したかった。そして今ならずいぶん理解できると感じている。

三原順が本当に描きたかったのはクークーの話だったと聞いたことがある。「カッコウの鳴く森」とその後のクークー&サーニンの話は非常に感動的な話だと思う。なにより最後に、人は理解しあえるかもしれないという、希望を与えてくれた。クークーが森に向かって駆け出し、そしてサーニンがそれを受け止めようと決心するラストは、つらいけど希望があったと、今になって思う。

一番難しかったグレアムも、全てを自分の手でどうにかするのではなく、人に頼ることをして、初めて大人に近づけたのではないかと思う。「自立することはできないけど、孤立することはできる」と言っていたグレアムが、人に頼ることで逆に自立への一歩を踏み出したのではないかと。そして、4人とも火を囲んで生き延びたのではないか。いまいち頼りにならないけど、一緒に歩こうとしてくれる大人たちと一緒に。
どうしようもなく暗い話だけど、「大人になること」「生きて行くこと」を否定せず、真剣に考えた話だったのではないかと思う。

はみだしっこが大人になる時

子供と接していると、どうしても納得できないことが時々ある。その一つは、子供が、自分が傷つきやすいことを大人との交渉の手段にしようとする事である。話の流れを「傷つきやすい子供に気を使わなければならない」という風な感じに持っていこうとするのだ。そして子供をそういう存在として許す大人もいる。
子供はいろいろなことに免疫がないから、傷つきやすいという事は理解できる。だから大人はそれを慮って、多少グズグズしていることも大目に見なくてはならない、という感じになっていることもわかる。ただ弱いことを、甘く見てもらうための手段として使う子供や、それを許すのは正しいことなのだろうか?それを武器にするような子供に配慮は必要なのだろうか?そもそも弱いことを振りかざして優位に立とうとする行動は、人としてどうなのだろうか?

昔、「はみだしっこ」という漫画があった。あの時代の少女漫画の名作だとされているし、私もそう思う。今思い返しても、漫画を評するのに適当な表現ではないかもしれないが、なんというか、優れた話だったと思う。何が優れているかって、子供の視点から「大人は分かってくれない」というところから始まって、最後には「大人だって悩んでる」という視点まで行きついたところだ。それもとても深いところで。
とても印象的なセリフがある。孤児院の運営をしている若い女の先生が、子供との行き違いに悩んで言う、「子供なんて嫌いよ。傷つくことばかり一人前で!」というセリフ。私の気持ちを非常によく表していて、びっくりだ。まさにこれ!という感じ。大人にだってできないことはあるし、その中で、子供や社会や自分の都合を何とかやりくりしてやっていこうとしているのだ。大人だって全ての責任を放棄して、やりたいようにやりたい時だってあるが、立場的に難しいので、必死で建前を振りかざしているのだ。しかし子供はそんなことを理解しようとはしない。

子供は確かに弱いが故に責任を保留されているが、だからこそ子供には許可されない、権利がないこともある。自分がそういう存在だという事を感覚的にわかっていてほしいと思う。責任と権利はバーターなのだ。どんなに幼くたって、そういうことを理解してほしいのだ。

コネミ・ダ・マーヤ

私がファンレターなるものを出したのは、山田ミネコが初めてだ。確か高校生だった。
「私が好きな人はホウサヤマ(漢字忘れた)くんに似ています!」などと、バカみたいなことを書いた覚えがある。思い出すと恥ずかしい。
 でも私は本当に山田ミネコの漫画が好きだった。絵はそんなに上手いとは言えないし、話も大雑把。でもストーリーは壮大で、その発想力は今考えても素晴らしかったと思う。人類が生まれてからずっと今まで(そして未来も)戦っている敵の存在。そのSFとしての構想の大きさは、クトゥルー神話に通じるものがあるのではないかと思うほど。軽いキャラクターとコメディタッチのノリにシリアス展開を混ぜてくる話は、とにかく勢いがあって、魅力的だった。SFとしての世界観も割としっかりしていたし、ちょっと中国っぽい文化の背景も素敵だった。敵の名前が「デーヴァダッタ」だったり、ネパールのクマリが出てきたり、SFというより伝奇ものものというか、ファンタジー的な要素も多かったけど、そこも好きだった。ちょうど連載していた秋津洲大和編とパトロールシリーズは夢中になって読んだ。ハルマゲドン伝説シリーズはかなり前からの連載で、当時もう売ってないものも多かったけれど、全巻揃えた(はず)。その後連載がどれも終わってしまって、本当に残念だった。どこかで再開してくれないかと願った。
 
ちなみに好きなキャラはプロフェッサーこと、コネミ・ダ・マーヤ。他のハデハデな皆さんもそれぞれキャラが立っていて、みんな好きだったが、なぜか地味でそんなに活躍もしないこの人が妙に好きだった。

 しばらくたって、ドン伝の外伝やそれ以外の漫画が出ていたことがあった。当然読んだが、正直がっかりした。絵が雑になり、話が雑になり、特定のキャラクターに偏り、すっかり同人誌的なノリになってしまい、正直読むのがつらかった。結局そのまま、山田ミネコは見なくなってしまった。

・・・多分もう、ドン伝がラストまで書かれることはないだろう。
 永都が、星野が、小角がどうなったのか。人類の未来はどうなったのか。本当にラストまで着地して欲しかった。どこかで語られることがあったら嬉しい。誰かほかの人でいいから、続きを作ってくれないかしら。

 そういえば、ファンレターには返事が来た。キャラクターの便せんなんかが入っていて、直筆だったか忘れたが、簡単なお返事をいただいた。しばらくは宝物だったのだ。

片付け考

コロナ騒ぎの中の休日、大雨まで降ってきて、とても出かけるどころではないと、少し大掛かりに部屋の片づけでもすることにした。階下に暮らす母の家もついでというか、私がやらないと、とても片付かないだろうと、思い立ってやり始めた。

始めてすぐに、一応覚悟はしていたが、これは一筋縄ではいかないことが分かってきた。まず廊下から寝室に入るドアの前が荷物でふさがれていて(リビングからは入れる)、とりあえずここを通れるようにしなければ、と物をどかし始めた。するとその物たちは、納戸にある物たちと合わせて片付けた方が良いということが分かってきて、納戸にも手を付けることに。この納戸が曲者で、ウォークインのはずが入り口いっぱいまで段ボールが積まれていて、とても入れる状態ではない。
この段ボールがまた・・・1つ1つは小さいもので、ゴミ袋やラップ類、キッチンペーパーの買い置き、カップラーメンやお茶の買い置き、大量の空き瓶や紙袋、使わない食器類、そしてなぜか大量の未使用のクーラーバックやピクニックシート・・・そのようなものが、段ボール箱にほおり込まれ、重ねられ、またほおり込まれ、重ねられ・・・ 
母の家は一応リビングや和室は片付いており、別にゴミ屋敷というわけではない。でもその廊下や納戸を見ると、なんだかくらーい気持ちになってきてしまった。なぜこうも物を捨てることができないのか。そして絶対にこんなには使わないだろうと思えるものが、なぜこんな量あるのか。
いずれ役に立つ、まだ使える、そういう理由で捨てられない物たち。安いから、という理由で必要以上に買われる物たち。そしてそれらが段ボールに入れられ重ねられると下のものは見えないので、存在することを忘れられ、また買われて新しい段ボールが仕立てられる。そして、下の段ボールの物たちが日の目を見ることは、おそらくほとんどない。

役に立たないものを安いから、という理由で買うことは私にもある。たいていは自分のものだったり子供のものだったり、「そんなに気に入ったわけじゃないけど、あれば使うかな~、安いし」と思って買ってしまうことはある。でも母の不思議なところは「使う人」があまり想定されていないところで、「誰か」が使うだろう、と思って買ってしまうようなのだ。その「誰か」は大抵の場合家族なのだろうけれど、具体的に想定しているわけではないので、その誰かの好みや必要性などは全く考慮されない。そして結局、お蔵入りになってしまうのだ。
これはもう昔からで、服メーカーのパートをしていた時などもひどかった。「誰か」の好みなど全く考えず、安いから、という理由でバーゲン品をよく買ってきて、家族にあきれられていた。あとレインコートへの執着もひどく、よく行く場所の近くにレインコートなどを100円とかで売っている店があるらしく、たびたび買ってきては、くれるのだ。でもレインコートなど何着もあっても仕方なく、実際私は1つのものをもう何年も使っている。もらったものもせっかくだから使わせてもらうが、おかげで子供用などはきちんとしたものを買う機会を逸してしまっていた気もする。結局、今回の片づけで何着ものレインコートを捨てる羽目になった。

昔からだから仕方ないと言えば仕方ないが、使いきれないものを買ってしまい、一か所にしまい切れず段ボールを積み重ねていくのを見ると、なんだか暗い気持ちになってしまった。ちょっと違うかもしれないけど、何かで読んだ、少しボケてしまったおばあちゃんが「脱ぐ」という概念を忘れてしまい、「暑いから」と涼しげな服を何枚も着込み、結果、暑がっていた、という話を思い出してしまった。

私も片づけがけして上手いとは言えず、収納も効率的にやっているとはとても言えないが、こういう気持ちを払拭するためにも、せめて少しでも片付けて、自分も母も気持ちよく過ごせるようにしていきたいと思った。
 

ターシャテューダーの庭

昔から、大輪の花咲き乱れる豪華な庭より、ハーブや小花の淡い色彩の、あまり手の入らない風情の庭が好きだ。今の家に住むことになって、一応、庭が手に入り、いつかはそういう庭に整えたい、と思っていた。しかし元々庭いじりが好きなわけでもなくそれほどの情熱もなく、何もしないまま、10年ほどが経過してしまった。
それがこのコロナ禍で思いがけず時間ができ、なぜか夫も急に片付けに協力的になり、いよいよ庭に着手することになった。

去年、ずっと春を楽しませてくれていた大きな枝垂れ桜が、いよいよ弱って切らざるを得なくなってしまい寂しい思いをしたが、その分明るくなったのを幸い、いろいろやれそうではある。しかし、プランターや雑草が蔓延るごちゃごちゃの庭。家は洋風なのに大きな灯籠や象の置物、和風な紅葉やナンテン、オリエンタルなオダマキ、ゴムの木やシダ、統一感がまるでない。これをどう片付けて、何を植えていけばいいのか、初心者は頭を抱えるしかない。

憧れのターシャテューダーの庭への道は果てしなく遠い…

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文字通り「手の入らない」庭

夏みかん 第二段

夏みかんピールが思いの外好評で、おばあちゃんや娘に送ってしまったので、たちまち残り少なくなってしまった。そこでまだ新しいうちに第二段を作成することに。そしてせっかくなので、中身は夏みかん酒にすることにした。梅酒以外の果実酒を浸けるのは初めて。初夏らしい爽やかな色合い。飲み頃になるのが楽しみだ。f:id:itsuki35:20200509201946j:plain