猫の額

初心者の猫と庭いじり。日々のこと。

春にして君を離れ

私はアガサクリスティーを、全くと言っていいほど読んでいない。「オリエント急行殺人事件」や「そして誰もいなくなった」のあらすじくらい知っているけど、推理小説も探偵物もあまり興味がなかったので読む機会がなかった。唯一、まともに読んだことがあるのが、「春にして君を離れ」だ。探偵も殺人も出てこないが、心理ミステリーと言えるかもしれない。
ある上流階級の女性が主人公。自分の良識、正しさに自信を持ち、その考えを夫、子供、周囲の人々に押し付けてはばからない女性。そんな彼女が列車事故で数日足止めをくらった機会に、自分の傲慢さや周囲の人の迷惑に気が付き、自らを深く省みる話。結局、舞い戻った日常に反省の気持ちも吹き飛び、以前と変わらぬ生活を送ることになるのだけれど。
彼女の自分自身に気が付いていく過程も興味深く、「こんな人いるよね~」という、あるある!というところも実に面白いのだけれど、私が一番良いと思ったのは、彼女の夫だ。

彼は実は、夫妻の共通の知り合いである、ある婦人に恋に近い感情を抱いている。しかしその気持ちを誰にも悟られたりしないし、婦人本人に伝えたりもしない。ただ控えめに、「適切な距離を保って」となりに座るだけ。しかしその距離こそが、彼が婦人に抱く思いの強さなのだ。二人が離れて並んで座って夕日を眺める姿は、大人の叶わない恋の切なさ、痛みを感じさせて、とても美しいと感じた。
夫は妻の振りかざす正しさに抵抗できず、とても疲れている。そしてそんな妻が、自分とも子供とも周囲の人とも、本当の意味で交われないことに気が付いている。しかしそれを指摘したりしない。ただ、妻自身がそのことに気が付かないように、と願うだけ。それは、それを指摘することによって生じる妻への衝撃や、自身との軋轢を避けるためのずるいやり方なのか、思いやりなのか。いずれにせよ、彼の秘めた恋や妻へのあきらめの気持ちが悲しくて、深く重く感じられた。

それにしても、私は「マディソン郡の橋」でも、妻の気持ちが自分にないことを知っていてどうすることもできなかった夫を魅力的に感じたけど、私は報われない夫が趣味なのかしら。というより、報われない気持ちを秘めている、っていう切なさが魅力的なんだろうな。

それと自分で書いてて気が付いてしまったけれど、「正しさを振りかざし、人と本当の意味で交われない」って、自分のことのようで、ちょっと痛い。