猫の額

初心者の猫と庭いじり。日々のこと。

美しい景色

怖いくらい奇麗な景色を見たことが何度かある。50年生きてきて、特に記憶に残るのは2度。
旅行に行って、そのたびに素晴らしい自然、建物、街を見て、そのたび感動した。写真にも思い出にも残っている。だが、その2回の景色は写真には残っていないし、人に説明してもわかってもらえるとも思えない、個人的な経験だ。だから正確には、「奇麗な景色」ではなく、私が「奇麗に感じた景色」だ。

一つは卒業旅行で行ったイタリア、ローマ。夕方ホテルに帰って、まだ日が落ちていなかった。外では通りを何かのデモ隊がぞろぞろと歩いていた。日が暮れかかり空と街全体が不思議な紫色に染まっていた。その空を恐ろしいほどのヒヨドリの大群が飛び回り、雲のように影を作っていた。そのくせなんだか、あたりがやけに静かで、私は友達と二人、その景色を見つめながら、しばらく黙っていた。
紫のローマはとても美しく、なんだか、胸が切なくなるような不安なような、不思議な心地がした。

 もう一つは皇居のお堀を見下ろす景色。どこからだったかもう覚えていない。夜、皇居の石垣の上の林の中に忍び込んで、お堀を見下ろした。周りの街灯の光が水面に映って、ぼんやりにじんで光り、美しかった。なんだか街がやけに遠く、隔絶されたところにいるような、別の世界にいるような気がして、悲しいような切ないような気持ちになった。

 「風景が怖いくらい奇麗に感じるのは、悲しいことがあった時」というのは、だいぶ昔読んだ漫画に出てきた。「今夜の景色は怖いくらい美しい」という友達に、主人公が「悲しいことがあったの?」と尋ねる場面の、しっとりした雰囲気が印象的だった。

 そう、月並みなような気もするけれど、風景を怖いくらい美しく感じさせているのは、自分の心の有り様なのだ。そしてそれは嬉しい、楽しい時よりも、悲しく不安な心持の時の方がより多い気がする。未知の世界へ踏み出そうとする時の先の見えない不安、誰かと別れる時の悲しく寂しい気持ち。そんな心の穴に、目にした景色がするりと入り込んでくるのだ。その風景は誰とも共有できないかもしれないけど、自分の中に大事にしまわれている。